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北山義勝氏のコラムによると、1923年(大正12)工手学校を卒業した小南は同年、曽禰・中條建築事務所に入所し、同じく同年9月1日の関東大震災を銀座服部時計店新築工事現場で経験したとある。 服部時計店の歴史をみると、この震災により仮営業所と精工舎工場は全焼し、仮事務所を芝区新桜田町に開設したとあり、当時立替の基礎工事の途中であった銀座服部時計店は、この震災により設計が白紙に戻され、すべてが設計変更となって6年後の1929年(昭和4)に建築が再開されたと記されている。そして1932年(昭和7)6月に竣工した銀座服部時計店が渡辺仁の設計であることから、曽禰・中條建築事務所は震災によりこの仕事から外れることになったものと推察される。ここで改めて服部時計店の歴史をみると、再開された建築は「ローマやギリシャ建築のネオルネッサンス様式を採用し、外壁は耐震耐火のためにすべて天然石に変えた」と記されており、デザインと耐震耐火という両面での大幅な変更がなされたことが想像される。 北山氏の次に続く言葉からも、この時の経験が設計者としての自覚と倫理感、そして建築にとっての構造の重要性を小南の中に植えつけたことが伺える。そしてこの2年後には早くも函館市に建築技手として移籍することになる。 曽禰・中條建築事務所での在職期間は非常に短いものであったが、工手学校(*工手学校を参照ください)の成り立ちや当時の教授陣容からして、現在とは違い卒業して間もない小南をして技術者として即臨戦できた力を習得していたと思われる。 くしくも小南が設計した弥生小学校の入口部分の曲面と、銀座服部時計店の4丁目交差点部分の曲面に形態上の類似点が見受けられるが、私は弥生のデザインのもとになったのは曽禰・中條建築事務所の作品の中にあると思っている。とりわけ入所して間もない小南は、1918年(大正7)完成の海上ビルヂング本館、1922年(大正11)完成の有楽館、そして1923年(大正12)完成の郵船ビルヂングなどを直接見たであろうし、その中でも特に、入所した年に完成した郵船ビルヂングが彼の眼に焼きついたのではないかと私は思っている。技手としての教育を受け、その実践を積んだ小南が函館の地に来て、初めて設計者としての立場で取り組むことになる一連の建築に、辰野金吾や曽禰・中條建築事務所の作品が創作の礎となっていることは容易に想像がつく。辰野金吾の設計となる旧市立図書館書庫に連続して本館を設計するにあたっては、当然古典的色合いも残したのであろうし、設計を重ねるに連れて古典から完全に離れ、アール・デコの影響や最初に見た郵船ビルヂングのデザインが弥生小学校のファサードを生み出す原型になったと私は考えている。
by yayoizaka
| 2008-04-02 00:03
| 09. 小南武一
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