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▋ 函館復興小学校 函館復興小学校考察で書いたように昭和9年の大火で函館は9つの市立小学校を失う。 その内の7校が木造校舎で、2校が鉄筋コンクリート造の校舎だった。 これらの小学校は大火後の復興事業で、鉄筋コンクリート造で罹災した新川小学校と函館女子高等小学校は改修の後生まれ変わり、残りの7校は校区再編が加えられながら5校の鉄筋コンクリート造新校舎に生まれ変わる。 これらを完成順に見てみると、昭和10年に新川、函館女子、青柳、高盛小学校の4校、11年に東川、的場小学校の2校、12年に大森小学校の1校、そして13年に弥生小学校が完成する。 これらの復興小学校を都市計画的に俯瞰すると、高砂、宝、汐見の3校は再編の中でその姿を消しているが、これは校区再編の一方で防災拠点となる小学校を現在の大森海岸側に配置することで避難ルートの単純化を図ったものと推察できる。 それは旧第二東川小学校が大森小学校として海寄りに建設されたことからも明らかである。 一方、旧大森小学校の位置に高盛小学校が、そして新たにその東に的場小学校が建設されるなど、市街地の東への拡大に合わせるかのように小学校が新築されていったことが如実に表れている。 #
by yayoizaka
| 2009-09-14 07:37
| 22.弥生小学校再考
▋ 大正10年大火後の不燃化政策に於ける小南武一の仕事 左図中、青緑の範囲が明治40年大火区域、黄緑の範囲が大正10年大火区域を示している。 小南はこの後者の大火後の不燃化政策遂行に従事する。 小南は左端の図書館本館と右端の新川小学校を昭和2年に、海に面した函館女子高等小学校を昭和4年に、、そして大正10年の大火区域の両端近くに、市民館と青年会館を昭和8年に完成させる。(●印) ▋ 昭和9年の大火による焼失小学校 左図中、オレンジの範囲が昭和9年の大火区域を示している。 そして、その中の丸印は焼失した小学校9校を示している。 右から左に向かって、大森小学校(木造)、新川小学校(鉄筋コンクリート造)、高砂小学校(木造)、函館女子高等小学校(鉄筋コンクリート造)、東川小学校(木造)、第二東川小学校(木造)、宝小学校(木造)、住吉小学校(木造)、そしてその上が汐見小学校(木造)になる。 ▋ 昭和9年大火の復興事業としての復興小学校 左図は復興小学校を示している。 右から左に向かって、的場小学校(現、的場中学校)、高盛小学校、新川小学校、大森小学校、函館女子高等小学校(後の旭中学校)、東川小学校、青柳小学校、そして上にある●印が弥生小学校となる。 因みに、●印は改修された2校、●印は新築された5校を色分けしている。 東西方向には的場小学校から青柳小学校にかけて、復興小学校が大火避難時の拠点として均等間隔で建設されているのが分かる。 それに対して弥生小学校だけが離れていて、この復興建設計画の概念から外れるように見えるが、●印の2箇所を加えると南北方向にも均等間隔で避難拠点が考えられていることが分かる。 因みにこの二つは下が東本願寺別院、上が高龍寺にあたる。 左の地図は函館市復興計画図で、大火後の道路計画が見て取れる。図中のマークは上の7校の復興小学校と弥生小学校に加えて、●印で小南が設計した図書館本館、青年会館、市民館を示している。 ▋ 現存する復興小学校 左図は現存する小南武一の建築を示している。 復興小学校としては右から左に向かって、●印で示す的場小学校(現、的場中学校)、高盛小学校、青柳小学校、そして上に●印で示す弥生小学校となる。 ●印は旧図書館本館と青年会館(現、公民館)となる。 #
by yayoizaka
| 2009-09-13 06:42
| 22.弥生小学校再考
▋ 函館復興小学校考察 大正10年の大火後、防火線の設置と鉄筋コンクリート造防火壁の築造が大きな課題となる。 また東部への市街化が急速に進む中で、長屋の連続や防火用水利などのインフラ整備の遅れにより、明治40年の大火に匹敵する潜在的危険性が既に指摘されていた。 そのような情況下にあった函館に大正14年、函館市不燃化政策を遂行するために曽禰・中條建築設計事務所から他の二人の技手らとともに小南武一は迎えられた。 当時函館では大正5年に岡田健蔵により北海道初の鉄筋コンクリ-ト建築物である書庫が完成しており、小南が来た時、岡田は市立図書館長に就任し、既に本館建築の寄付も取り付けていた状況にあった。 そのような背景の中、小南は昭和2年に図書館本館と新川小学校 (以後も、尋常小学校の表記は省略)、昭和4年に函館女子高等小学校、昭和8年に市民館と青年会館(現、公民館)を世に送り出す。 そして昭和9年の大火が函館を襲う。 この火災により中等学校1、私立裁縫女学校7、市立小学校9が焼失する。 この小学校9校の内、7校が木造校舎、2校が鉄筋コンクリート校舎であった。 この2校こそが小南が設計した新川小学校と函館女子高等小学校であった。 また焼失した市役所は一時元町公会堂を仮庁舎とするが、不便なため焼失を免れた市民館で業務を再開する。 函館市災害復興事業費を見ると、5校の新築復旧費と2校の修繕復旧費の記載があり、また事業費の説明には次の文言が残っている。 「焼失小学校9校の内、2校の鉄筋コンクリート造は直ちに修理を加えて使用し、5校を鉄筋コンクリート造とする。」 そして昭和10年に新川小学校と函館女子高等小学校が改修を終えて竣工し、昭和10年に青柳と高盛小学校、昭和11年に東川と的場小学校、昭和12年に大森小学校、そしてこれら7校の完成を見届けるかのように、弥生小学校が昭和13年に竣工する。 #
by yayoizaka
| 2009-09-12 07:32
| 22.弥生小学校再考
▋ 昭和9年大火復興事業考察-3 昭和9年の大火は住吉町で出火し台風並みに発達した低気圧の影響を受け、上に書いた明治40年の大火に匹敵する潜在的危険性があるとの指摘通り、市街化が進み無防備であった的場町までを焼き尽くす大惨事となった。 この大火は西は二十間坂の防火線で類焼を食い止めるが、大正10年の大火後に整備されたもう一方の恵比須通りの防火線は防火壁としての役目を果たせず、東部への類焼を阻止することはできなかった。 しかしこれは大正12年の関東大震災後に一般化する鉄筋コンクリート造とは異なり、確立した基準もないまま見様見真似で造られた不完全な鉄筋コンクリート造のため、本来の耐火構造群としての防火壁の機能を果すことができなかったと言える。 昭和9年の大火後の復興事業の特徴は都市計画法に準じたこと、国からの経済的補助が得られたこと、内務省の指導と道庁職員の動員がなされたこと、そして既に函館不燃化計画に10年近くに亘り係わっていた小南武一が市側の技師としていたことが挙げられる。 函館市復興計画図を見ると、焦土と化した土地は55m道路によって5つの区域に大きく分けられ、その骨格となる防火線を直角に結ぶ36m道路によって更に細かくその区域は分割されている。 そしてその中を27m道路によって更に細かく分割するという周到な復興計画が描かれている。 この復興計画に於ける復興小学校について市史には次のように書かれている。 「小学校は、直接に都市計画として決定はされていないがその位置や大きさは街路、公園等の復興計画と連携させ区画整理設計として決定されている。そのために小学校の位置は、グリーベルトの終端かもしくは交差点の付近に求め、児童教育に閑静な環境を与えるとともに防火線と一緒になって防風、防火の目的を担っているのである。もちろん校舎は、鉄筋コンクリート造である。」(市史引用) もう一つ見落としてはならないことがある。 昭和9年大火の復興事業のために函館市復興会が設立されている。 その復興会の役員は顧問として東京市政調査会理事・池田宏、東大名誉教授林学博士・本多静六、建築学会会長工学博士・佐野利器、そして委員(土木・建築)として函館市技師・小南武一、函館市土木課長・本島正輔が名を連ねている。 当時係長の小南の名が土木課長より前に書かれていること、また市側総勢9名の内技術系は上の2名であることから、小南はこの復興事業の函館市側の実質的責任者であることが窺い知れる。 また函館市復興事務局も設置されているが、この中の職員を見ると工事課建築係長市技師・小南武一となっていて、小南の名前だけが明記されていることからもその実力と重責ある立場を窺い知ることができる。 上の東京市政調査会理事・池田宏は内務官僚であると同時に都市計画家であり、関東大震災後に帝都復興院計画局長として復興計画にあたった人物として知られている。 東大名誉教授林学博士・本多静六は造園家であり日本の「公園の父」と言われている。 同氏は北海道の大沼公園にも係わったこともあり、この復興事業では都市整備と避難場所としての公園やグリーンベルトの計画に係わったものと思われる。 建築学会会長工学博士・佐野利器は東大で辰野金吾の講義から耐震構造理論の確立を目指し、耐震構造学の開拓者と言われている。 同氏は関東大震災後に帝都復興院理事と東京市建築局長を兼任し、東京の復興小学校建築に係わった人物としても知られる。 その日本の建築構造学の基礎を築いた佐野利器が直接指導した東京の復興小学校は、耐震診断の結果、十分な耐力を持つと診断されている。 その同じ人物が函館で直接指導したのが函館の復興小学校であることを忘れてはならない。 #
by yayoizaka
| 2009-09-11 06:48
| 22.弥生小学校再考
▋ 昭和9年大火復興事業考察-2 大正10年の大火は二十間坂の防火線を超え基坂の防火線手前で漸く鎮火する。 この時も罹災家屋の多くが可燃性の木造家屋であったことから・随所に防火壁を設置すると共に狭少道路の改善が急務とされた。 しかし、この大正10年の大火後の特筆すべきことは銀座通り(当時は恵比須通り)を12間幅に拡張し、この通りを函館港から津軽海峡へ貫通させたことではないだろうか。 一方当初の防火線構想、即ち二十間坂と同じく恵比須通りを20間幅に拡張することで2つの防火線を構築することは、繁栄を極めていた商店街としてのスケールに馴染まず、建物の不燃化を図ることで道路幅については柔軟に対応することで決着をみる。 言うまでもなくこの背景にはあくまで不燃質建物による防火線を重視していたことが考えられる。 そしてこの時の判断が結果として銀座通りにあの特有な都市景観を生み出すことになる。 しかし当時の繁華街である十字街を含む区域、即ち恵比須通り以西はこの防火線によって守られるが、東に向けて市街化が進む区域に対しては全く無防備であった。 それは都市計画事業への財源確保の困難から、東部の放慢無統制市街化を抑制することができなかった当時の事情があるとは言え、このことが明治40年の大火に匹敵する潜在的危険性があるとの指摘を遠ざけたのも事実と言える。 #
by yayoizaka
| 2009-09-10 06:53
| 22.弥生小学校再考
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