カテゴリ
01. プロローグ 02. 目 次 03. 背景・保存・再生 04. 大火復興 05. 古写真・絵葉書 06. 近況写真 07. 伝統的建造物 08. 景観形成地域 09. 小南武一 10. 工手学校 11. 曽禰・中條 12. 辰野金吾 13. ゆかりの人々 14. 函館市情報 15. エピローグ 16. 後 記 17. 参考資料 18. ご意見 19. 四方雑話 20. 不条理 21. 街の記憶 22.弥生小学校再考 23.弥生小学校を考える タグ
本文(82)
Category19(62) Category20(51) 弥生小学校再考(34) Category21(15) essay bibliophobia(5) You Tube(3) 弥生小学校を考える(2) 著作権について
本ブログの記事・写真等の無断転載、無断コピーなどはお断りします。
これは本ブログの掲載にご協力頂いている方々の著作権を守るためです。 尚、私個人が所有するものについては、私的利用の範囲内に限り許可しますが、 その際はyayoizakaまで御連絡ください。 検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
▋ 昭和9年大火復興事業考察-2 大正10年の大火は二十間坂の防火線を超え基坂の防火線手前で漸く鎮火する。 この時も罹災家屋の多くが可燃性の木造家屋であったことから・随所に防火壁を設置すると共に狭少道路の改善が急務とされた。 しかし、この大正10年の大火後の特筆すべきことは銀座通り(当時は恵比須通り)を12間幅に拡張し、この通りを函館港から津軽海峡へ貫通させたことではないだろうか。 一方当初の防火線構想、即ち二十間坂と同じく恵比須通りを20間幅に拡張することで2つの防火線を構築することは、繁栄を極めていた商店街としてのスケールに馴染まず、建物の不燃化を図ることで道路幅については柔軟に対応することで決着をみる。 言うまでもなくこの背景にはあくまで不燃質建物による防火線を重視していたことが考えられる。 そしてこの時の判断が結果として銀座通りにあの特有な都市景観を生み出すことになる。 しかし当時の繁華街である十字街を含む区域、即ち恵比須通り以西はこの防火線によって守られるが、東に向けて市街化が進む区域に対しては全く無防備であった。 それは都市計画事業への財源確保の困難から、東部の放慢無統制市街化を抑制することができなかった当時の事情があるとは言え、このことが明治40年の大火に匹敵する潜在的危険性があるとの指摘を遠ざけたのも事実と言える。
by yayoizaka
| 2009-09-10 06:53
| 22.弥生小学校再考
|
ファン申請 |
||