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<2008.4.13追加> 「生む」ことでこの街との関わりが始まり、「葬る」ことで再びこの街と関わりを持つことになった。そしてこのブログを完成に近づけるための今回の調査が、皮肉にも私とこの街との間にあった、時々の、揺蕩(たゆた)うような楽しく、そして大切なひと時を終焉させることになりそうな予感を今感じている。 この街の閉塞体質、一部の人間の利権で物事が動く、先人の残したものの上に胡坐をかき、先人の汗を感じ取ろうとも、その尊い汗の跡を未来に継承しようともしない。文化を育むと高らかに唱えながら、この汗の継承こそが伝統を受け継ぎ、文化を育むことであることに気付く知恵も想像力もない。箱物乱造・纏足(てんそく)教育を勝ち抜いた役人、単眼猛進(盲進)型市会議員、そして既得権堅持(保持)者が手を握っているのだから始末に悪い。この手のオリンピックがあったら、金・銀・銅は間違いなく独占できる。 しかし私は思う。これらの人種と、かつて保存運動に汗を流した猛者(もさ)達と、現在、保存やまちづくりを掲げて活動している人達とどれ程違うのだろうかと思う。詰る所、この街の閉塞体質を変えようとしない人達が、浅いところで保存やまちづくりを語り、行政を批判しているだけでは何も変わらないのではないのか。この猛者達の中には、かつて取り組んだ保存運動から20年の時が経過する中で、小さいながらも既得権者側に半身を置きながら声だけを高く揚げて、言いっぱなし、聞きっぱなしになっている者はいないのか。このブログを生かすも殺すも、このかつての猛者達の肩に掛かっていると言っても過言ではないのだが。そしてそれは、半身だけで保存を叫ぶかつての仲間とではなく、新しい若い賛同者を巻き込んで取り組むことで、行政と既得権者が結びついて好いように(好きなように)街を造り変える、この途方もなく傲慢で閉塞的な(私は日本一閉塞的だと思っている)、悪しき体質を打ち壊す可能性が残されていると思う。 私はこのまちが好きでたまらない。一方、このまちの稀有な閉塞体質と、人の心に蔓延(はびこ)る諦め体質は殊の外きらいだ。 函館の十八の坂には、そのそれぞれにそれぞれの景色がある。それは、坂の上から見える景色だけが美しいのではなく、坂と直角に交わる幾本もの道、その道の一方は船見坂や入船に消え、また別の一方は青柳になだらかに消えていく、この坂と道が縦糸と横糸のように紡ぎ出す風景とそこにある人の営みが美しいのだ、いとおしいのだ、これこそが函館の持つ魅力なのだ。坂から見下ろす風景の先にもそれぞれ風景に溶け込んだランドマークがあった。その中の一つにスケールアウトしたホテル・ラビスタが加わり、街のそこかしこだけではなく、湾のどこからも見えるゴライアスクレーンが消えようとしている。 この後記の最後に、我が家に咲いた花の写真を紹介する。昨年の六月に弥生坂で孫を連れたお年寄りと出会い、坂沿いに手入れされた花壇の中からシャガの株を分けていただいた。そのシャガが我が家の小さなベランダで今年花を咲かせた。花というのは決して無駄な咲き方をせず、二日づつ順番に花を付けていく。このような穏やかで心優しい人との触れ合いも、この坂や道やこの学校が70年という歴史の中で育んでくれたからこそなのである。 よそ者の私が勝手に「弥生小学校の保存を考える」というブログを立ち上げ、外から勝手なことを言う失礼は十分に分かっている。私は函館の人による保存運動の展開を心より望んでいる、待ってもいる、もとよりこのブログはそれをサポートするためにある。 補遺 函館での調査を終えて離れる日に、空港で遅延による3時間の足止めをくった。その時に購入した新聞2紙を読んで愕然となった。 「ピカピカの1年生 弥生小学校で入学式」、その記事は次のように続いていた。「校舎を建て替える弥生小学校では、1938年に建てられた現在の校舎で行う最後の入学式となった。教員や保護者が見守る中、新1年生は6年生に案内されて入場。佐野太三校長は「皆さんはこのたくさんの思い出の詰まった古い校舎の最後の入学生。この建物で勉強するのはわずか1年ですが、お兄さんやお姉さんたちと楽しい思い出を作りましょう」と式辞を述べた。児童会長の橋本花那さん(6年)は「皆さんが来るのを楽しみにしていました。分からないことは何でも聞いてください」とあいさつ。5年生はピアノや打楽器、リコーダーの演奏に合わせ、アニメ「となりのトトロ」のテーマ曲「さんぽ」を合唱して歓迎した。新入生の谷目菜君は「小学生になってとてもうれしい。みんなでドッジボールをして遊びたい」と話していた。(小泉まや)」<以上、2008年4月8日(火)函館新聞より> 小学1年生の入学の記事だからといって、文章まで稚拙であることはなかろうが、それはさて置き、ここまで話が進んでいることに驚きと戸惑いを持った。私は弥生小学校の取り壊しの話があることは聞いていたが、この1ヶ月程前に改めて取り壊しの話を地元のブログで知った。私がこのブログの立ち上げを10日間足らずで行ったのも、具体的に動き出す前に、早く資料を提供したいと思ったからだった。急いだことによる不備を埋めるために今回の調査もあった。 この後記を書くにあたり、改めて市の公開情報を検索してみると、今回加筆した、「西・弥生小」を統合 学校教育審が答申」<インターネット記事2005年12月2日付>と、「市議会定例会開会、西尾市長 市民参画の市政強調」<update 2008/2/28 16:42提供-函館新聞社 >という2つの記事を入手できた。 前者では西小学校と弥生小学校の統合の答申が掲載されているが、後者では西・弥生小学校の統合校舎建設が掲載されている。私は空港での記事に触れた時に、何故保存へ向けての旗揚げがなされてないのか腹立たしく思ったが、今、この後記を書きながら、この2005年12月の答申から、2008年2月の建設発表までの2年余りの空白が情報開示されていたのか、という新たな疑問が生まれてきた。 ちょうどこの間に市長選があり、2007年4月の函館市長の交代をこの時期と重ねて考えてみると、市長交代前後の混乱の中で、この問題は教育委員会内部で解体・建設に向けての静かで確実な根回しが進行していたのではないかと推測する。 もう一つ付け加える。今回アップした「平成18年第7回函館市教育委員会定例会 会議録」<2006年7月12日付>の記載に、「西小学校と弥生小学校の統合に関する懇談会を6月16日に西小学校、21日には弥生小学校でそれぞれ開催した。 両会場には、保護者や教職員、町会や同窓会の関係者など、50名程度が参集し、児童数の減少から統合はやむを得ない、と理解を示していただくとともに、施設・設備の整った新校舎をできるだけ早く建設してほしいなど様々な要望が出された。今後は庁内で統合の実施年度や、校舎を新築するか改修するか具体的な検討をしていく。」とある。 「両会場には,保護者や教職員、町会や同窓会の関係者など、50名程度が参集」ということは、もし仮に両会場の延べ参集人数が50名とすると、弥生会場への参集者は凡そ30名、そこから市の関係者と教職員を引くと、保護者・町会・同窓会関係者は20名足らずと予想できる。ここにある「施設・設備の整った新校舎をできるだけ早く建設してほしいなど様々な要望」は、この20名足らずの市民の半分の要望だと仮定すると、10名足らずの要望を、あたかも住民の総意であるかのように答弁し、この弥生小学校の解体・建設の流れが決められたことになる。 遅いことはない、やろうとすることが始まりの一歩である。
by yayoizaka
| 2008-03-28 18:01
| 16. 後 記
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