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大火からの復興事業として建設された弥生小学校を、大火という歴史的背景を通して見ることが目的です。、また、これらの背景をご存じない日本中の方々に保存を考える一助としていただくためです。
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by yayoizaka
| 2008-04-06 00:05
| 04. 大火復興
昭和9年の大火後の復興事業の特徴は、前述した都市計画法に準じることを基本としながらも、国の経費的補助や北海道庁の職員を動員して実施したことである。また、復興計画自体は、東京市政調査会や建築学会の意見書を参考にしながらも、北海道庁や函館市を積極的にリードした内務省の担当職員の指導力によって形成されている。ただし、昭和4年に決定された都市計画案が復興計画のひとつの指針となったのはいうまでもなく、とくにその街路計画は復興計画の立案に大きな役割を果たした。しかしながら、復興計画は、昭和4年に決定された街路計画が「概シテ幅員狭隘ニシテ交通ノ須要ニ適用スルモノ尠ナク、又近年漸次市街化シツツアル郊外ニ於ケル街路ハ雑然トシテ、彼此脈絡系統ヲ為セルモノナク」(「昭和4年 公文雑纂(都市計画)」)というように交通系統に関する問題を主として考慮されているのに対し、防火という見地から立案されている。具体的には、焼失区域内の計画幹線道路の幅員を増大するとともに新に防火線としての目的を有する幅員30間の5路線を南北に配置し、同じく20間の1線を東西に配置して市街を縦断するグリーンベルトが設定されていることである(昭和9年4月29日付「函新」)。その他に、住吉町、大森町、新川町の公園の設置や新川町にある裁判所などの官庁街や防火地区、東部方面の上水道の増設などがこの復興計画の中に盛り込まれている。また、小学校は、直接に都市計画として決定はされていないがその位置や大きさは街路、公園等の復興計画と連携させ区画整理設計として決定されている。そのために小学校の位置は、グリーベルトの終端かもしくは交差点の付近に求め、児童教育に閑静な環境を与えるとともに防火線と一緒になって防風、防火の目的を担っているのである。もちろん校舎は、鉄筋コンクリート造である。 これらを要約すれば、復興計画の骨子は「緑樹帯竝に主要幹線街路を相互交錯することに依り、市内を二十數個の防火「ブロック」に分ち、且つ重要路線に沿ひ防火地区を設定し、街路と耐火建築に依る防火施設の完全を期し、消火施設の充實を図る為に上水道及消火栓を拡張増設し、両々相俟つて将来の大火災を免れしむることとし、更に樞要の個所に公園を築設して日常市民の保健に資すると共に一朝災害発生の際絶好の避難場所たらしめん」(北海道庁『函館復興事業報告書』)との考えかたである。 ![]() 出展は函館市史デジタル版「大火後の復興事業」より ▲
by yayoizaka
| 2008-04-06 00:04
| 04. 大火復興
昭和9年3月21日午後6時53分、函館市住吉町の民家より発火した火災は、風速20余メートルにおよぶ東南の烈風に煽られて火勢劇烈を極め、瞬時にして他に延焼拡大していった。物凄い火炎は、青柳町より豊川町、鶴岡町、松風町、新川町方面を襲い、消防隊や軍隊等の必死の努力も、烈風と倒壊した家屋や電柱等の障害物に妨げられ、充分なる機能を発揮することが出来なかったのである。その後、風向が漸次西方に変化するに伴って末広町、会所町、元町方面は幸いに二十間坂によって延焼を遮断することが出来たが、反対に風下にあたる新川町、堀川町、的場町の間は全く廃墟に帰し、さらに北方に向かって延焼し、翌22日午前6時頃に鎮火することができたのである。実に、全市の3分の1を焼失したのである(『函館大火災害史』)。 大火の被害が大きかった原因を、当時の建築学会による報告書は、「一.発火より消防署に於て知覚するまでに約五分を要したこと、二.風力甚大で火災の伝播速度大且飛火多く尚風向の旋転方向亦最悪的であった事、三.火元付近は特に地形の関係に依り延焼中頻りに風の旋転、突風起りし事、四.発火地点及海岸付近は特に矮小粗悪木造家屋連担し且全市に亘り粗雑木造家屋が多かった事、五.防火地区極めて尠く、広場、公園等の都市計画上の施設が完備して居なかった事、六.発火地点は水道終点である為め水圧弱く水量乏しく、加ふるに風力強き為めに消防組の活動意の如く行われなかった事、七.道路概して狭隘にして消防組の部署変更に困難なりし事」(『函館大火災(昭和9年3月21日)調査報告』)と説明しており都市計画事業との関連性を想起させている。 ![]() 出展は函館市史デジタル版「昭和9年の大火概況」より ▲
by yayoizaka
| 2008-04-06 00:03
| 04. 大火復興
大火を切っ掛けに街区改正に着手した開拓使は、焼失した神社や学校の移転を民選の街区改正委員へ下問した。委員会は学校の移転ついて「内澗学校は旧八幡社地へ、松蔭学校は旧能量寺跡へ、常盤学校は旧神明社地へ移転、女学校は従来の地所と決定」(明治13年1月27日付「函新」)と答申、社寺の跡地への学校の再興を提言した。しかし、商業地域として最善の神社地をすべて学校用地へ転化することには問題があったのか、あるいは経費の面から3校を復興するのが無理だったのか、新築学校は3校に分割せずに1校に統一することになり、東本願寺と称名寺の跡地の一部(現弥生小学校付近<)へ631坪、20教室をもつ大規模な学校新築の「新築願」が、13年3月、区長から函館支庁へ提出された(明治14年「郡区上申」道文蔵)。建築資金は学校新築資金のみで全てをまかなうことができず、函館区は諸会社・銀行へ呼び掛け、7740円の寄付金を集めて新築資金にあてることにした(明治16年「区会議事録」、『北海道学事新報』13号)。 6月には石井弥三郎に建築請負が決まり、同年8、9月頃完成予定で木材の切り組みが始まった(明治13年「公立富岡学校建築書類」道文蔵、明治14年「区会議事録」)が、東本願寺の移転がスムーズに進まず、着工は翌14年にずれ込んだ。物価の高騰や子供たちの放置による学事の後退など、これ以上着工を延期できない函館区は、予定地に接続した山側の私有地を新たに購入し、14年6月、ようやく着工へこぎつけたが、落成間近の11月29日、失火により新築校舎は焼失、再び公立小学校の開校は延期となったのである。 しかし常野正義・渡辺熊四郎・今井市右衛門・平塚時蔵・平田兵五郎・伊藤鋳之助の再築有志発起人が941人から集めた寄付金5380円5銭(前掲『北海道学事新報』)と前回の寄付金の残額を合わせた″天神町建築学校費″をもとに、規模を20教室から14教室へと縮小して学校の再築を実現、ついに翌15年4月9日入学式を挙行した。校名は西側の坂名にちなみ「弥生学校」とした。収容児童数は500名で、焼失した松蔭・内澗・常盤各校の子供たちを主に収容した。なお渡辺・今井・平田・平塚の4名はこの公益への尽力が認められ、15年9月藍綬褒章が贈られた。 その後同じ年の10月弥生小学校新設資金の残金を元に函館公立女学校(小学校)を元町に開校、公立小学校の女子の一部を移した。こうして再び函館の学校教育が開始されたのである。開拓使は廃使され、3県分治の函館県の時代になっていた。 出展は函館市史デジタル版「公立小学校の再興」より ▲
by yayoizaka
| 2008-04-06 00:02
| 04. 大火復興
(前略) 明治12年12月の大火に、焼失区域から離れていた宝学校と住吉学校は難を免れたが、中心部に位置していた松蔭・内澗・常盤・第一公立女学校の4公立小学校が焼失し、約500人の児童が焼け出された。その他中心部にあった私立小学校や夜学校なども大半が焼失してしまった。難を免れた住吉・宝両学校は、翌13年1月12日より授業を再開したが、大半の児童は収容する学校も無く親の元におかれた。こうして軌道に乗り始めていた函館の初等教育は、大火による校舎の焼失によって再び出発にもどることになった。 (中略) この地区に公立小学校が再興するのは15年のことだった。 ![]() 出展は函館市史デジタル版「大火と校舎の消失」より ▲
by yayoizaka
| 2008-04-06 00:01
| 04. 大火復興
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