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01. プロローグ 02. 目 次 03. 背景・保存・再生 04. 大火復興 05. 古写真・絵葉書 06. 近況写真 07. 伝統的建造物 08. 景観形成地域 09. 小南武一 10. 工手学校 11. 曽禰・中條 12. 辰野金吾 13. ゆかりの人々 14. 函館市情報 15. エピローグ 16. 後 記 17. 参考資料 18. ご意見 19. 四方雑話 20. 不条理 21. 街の記憶 22.弥生小学校再考 23.弥生小学校を考える タグ
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▋ 建築の背景-昭和9年の大火復興事業 明治以降昭和9年の大火を含めて函館は26回の火災に遭っている。その内の明治40年と大正10年の火災がその規模から大きく歴史に残っている。 昭和9年の大火までは財政的理由や繁栄を極めている街区の区画整備などがなかなか受け入れられず、大規模な整備まで至れなかった背景がある。 しかし大正12年の関東大震災以後、耐火耐震性に優れた鉄筋コンクリート造が急速に普及する一方、構造学、施工学、材料学の発達や、建築学会の標準仕様書の編集による構造及び施工基準の整備と統一等が進んだ。 それらを背景に無秩序な市街地開発とは隔絶した都市計画法に基づく計画的な都市整備が実行されたことがこの昭和9年の大火後の復興事業の特筆すべきことである。 そして焦土と化した市街地の上に引かれた線が昭和9年の函館復興計画図であり、これが今日の函館の市街地形成と街づくりの元になっている。 そしてこの中で復興小学校の位置と規模は、道路や公園等と密接に連携しながら決定されている。 即ち復興小学校はグリーベルトの終端若しくは交差点の付近に位置し、教育環境への配慮を怠ることなく、防火線の一部であると同時に避難拠点としての役割を担わせている。 #
by yayoizaka
| 2009-09-03 07:22
| 22.弥生小学校再考
▋ 建築の背景-函館市技手・小南武一 小南武一(1897~1976)は兵庫県に生まれる。 大正12年に東京の工手学校卒業と同時に曽禰・中條建築設計事務所に入所するが、大正14年には函館市不燃化政策の遂行のために技手として函館市に迎えられる。 当時の函館は大正10年の大火後の復興事業の一つとして二つの防火線整備と防火壁となる建物の不燃化政策を進めていた。 函館に赴任した小南は大正5年に辰野金吾の設計により既に完成していた鉄筋コンクリート造の書庫に繋がる図書館本館と新川尋常高等小学校 (以下、小学校と記す) の設計に着手し、これらを昭和2年に完成させる。 続いて函館女子高等小学校を昭和4年に、市民館と青年会館を昭和8年に完成させる。 しかしその翌年、昭和9年の未曾有の大火が函館を襲う。 小南の設計した5つの建物の内図書館本館、市民館、青年会館は焼失を免れるが、新川小学校と函館女子高等小学校は甚大な被害を受ける。 その後小南はこの大火復興事業のために設立された函館市復興会に土木・建築の委員として参画し、函館市技師の肩書きで復興事業に従事する。 また同時期設置された函館市復興事務局でも工事課建築係長・市技師として復興事業の中心的な役割を担う。 この大火の復興事業に内務省の指導、東京市政調査会と建築学会の協力があったことは知られているが、函館市復興会は顧問として東京市政調査会理事であると同時に内務官僚であり都市計画家である池田宏、東大名誉教授林学博士で造園家である本多静六、建築学会会長工学博士で当時耐震構造学を最先端で指導できる実力と立場にあった佐野利器らを迎えていることは特筆に値する。 さて、復興事業の中の一つとして小南は焼失した9つの小学校の復興に係わる。 上の甚大な被害を受けた新川小学校と函館女子高等小学校は全面改修の末、大火の翌年には共に開校にこぎつける。続いて昭和12年までに5校の復興小学校が竣工する。 青柳、高盛、的場、東川、大森の各小学校がこの5校にあたる。 昭和9年の大火は二十間坂で類焼が食い止められたため火災には遭わなかったが、前の復興小学校7校の完成を待つかのように昭和13年、一年遅れて弥生小学校は完成する。 小南は焦土と化した上に再建または新築した7校の復興小学校を急務として完成させ、同時にこれらの復興小学校の集大成として、環境、地勢、伝統、教育、防災、それらすべてに対して周到に考え抜き、卓越した建築として最後に弥生小学校を市民に送り出したと推察する。 また、小南が弥生小学校に他の復興小学校以上に心血を注いだと思われるのは、この大火が二十間坂の防火線で以西への類焼が食い止められたことで、火災に遭わなかった街並みがそのまま残った西部地区は、急務であった復興事業の外に置かれたのではないかと推察する。 そのため防火上脆弱となった西部地区にあって、避難拠点となる東本願寺別院と高龍寺との中間空白域に、防災拠点としての弥生小学校を計画したものと考える。 それは昭和9年から同14年までの函館市災害復興事業費の中の小学校復旧費を見ても、前の7校の事業費のみで弥生小学校の事業費の明記がないことから、罹災していない弥生小学校は復興小学校とは異なる事業計画とコンセプトの下に設計されたものと推察する。 またそのことは小南がこの弥生小学校に於いて、上の7校の復興小学校の集大成として、環境、地勢、伝統、教育、防災、これら全てを計画に盛り込んだ自らが描く理想の小学校をつくり出そうとしたと推察される。 #
by yayoizaka
| 2009-09-02 15:37
| 22.弥生小学校再考
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by yayoizaka
| 2009-09-01 13:26
| 20. 不条理
去る7月15日に「弥生小学校を考える会」が函館市に対して行なった公開質問の回答は、同月22日に市長名で教育委員会より請求者に直接渡された。 本ブログは24日にこの回答を取り上げたが、質問内容が弥生小学校の耐震調査に関するものである為、関西大学准教授(建築保存工学)・西澤英和氏の正式見解を待って改めて取り上げるとして、それ以上の言及を差し控えてきた。 公開質問状が10日以内の回答を求めているように、これは「弥生小学校を考える会」としての次なる行動に速やかに着手するために、一切の無駄な時間はないという意志の表れだと解釈していた。 従って、八月の初め、遅くとも盆前には上の正式見解が出されるものと考えていたが、この時期に来て今だその見解が示されない為、取り敢えず上記回答書を読者の方々に公開することにした。 公開質問状にある西澤准教授の指摘事項は、私が構造に関して相談をしている構造専門家の意見と同じで、そのことは既に何度も本ブログで取り上げている。 本件に関しては、「弥生小学校を考える会」として正式に同准教授の意見を仰ぎ作成されていることを尊重し、筆者側からの見解は差し控えたいと考えている。 また、私個人としても公開質問回答の最後で少し触れた通り、相変わらず煙に巻くこのような回答書に対して改めての見解を書くつもりはなく、ここはあくまで「弥生小学校を考える会」が日本の保存の権威と認める、お二人の先生の正式見解とそれに続く尽力を期待するところ大である。 ■ 公開質問 ■ 公開質問回答(全10頁)PDFファイル (2.76 MB) #
by yayoizaka
| 2009-08-26 14:43
| 20. 不条理
今回は「弥生小学校を考える会」による関西大学・西澤准教授の正式見解 の取りまとめを待ちつつの三つ目の投稿となる。 函館のタウン誌であるジャム函館・9月号に、この弥生小学校の保存問題が取り上げられたことを紹介したい。 大手マスコミがこぞってこの問題に目を伏せる中、3月の北海道新聞朝刊「やまがら日誌」、4月の函館のケーブルテレビNCVによる30回の連続放映に続く取り上げとなる。 この三つに共通しているのは、函館に惹かれこの街が好きでたまらない女性カメラマンや女性記者が、自分たちの目でこの問題を見詰め、自分たちの言葉で函館市民に向けてメッセージを送ろうとしていることだ。 その真摯な姿勢と、この問題を正視し決して保存側に偏った視点ではなく、あくまで客観的に冷静に伝えようとする三人の若い女性たちの存在を頼もしく思う。 今朝、上の掲載誌が私の手下に届いたが、その送り状には、「今後も動向を見守りながら、例えどんな結末であっても、絶対にムダなことは何一つありません。」、と書かれていた。 私も同感だ。 例えどんな結末であっても、無駄なことは何一つない、と思う。 私は、函館を愛し函館の未来を心から考えようとする若者が、少なくとも三人はいることが何より頼もしい。 そして、彼女たちの小さな発信が、函館市民一人一人の心に届くことを願っている。 ■ ジャム函館・9月号PDFファイル #
by yayoizaka
| 2009-08-24 12:29
| 20. 不条理
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